実在した忍者達

2011/04/10

伊賀崎道順

伊賀崎道順(いがのさきどうじゅん)は、戦国時代の伊賀流忍者。中忍の身分。伊賀楯岡の生まれだったので通称楯岡ノ道順とも いわれます。伊勢の北畠氏や近江の六角氏、後に徳川家康などに仕えたといわれています。六角義賢に仕えていたころ、義賢の配下だった 百々氏が謀反を起こしました。道順は百々氏の居城、沢山城に忍び込み、城に火をかけ、城内を大混乱させ、城を落とし、 手柄を立てたといわれ、難攻不落の城も「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と詠われたほどだそう。また、鉄砲の名手ともいわれていて、 織田信長の暗殺を企て狙撃した事もあります。だが、信長に命中せず、隣にいた人物に命中してしまったという記録が残っています。 ただしこれは、道順の仕業ではなく、城戸弥左衛門の仕業とも言われています。

出浦盛清

出浦盛清(いでうらもりきよ)甲斐の武田家治下で、甲州透破の支配者。敵城へ配下の透破を潜入させる際、それより先に、 自分が忍びに入って探索したそうです。配下の透破の報告の正確度を確認するほどベテラン。武田氏滅亡後は、森長可に属したが、 天正11年、真田昌幸・真田信之に仕え更級郡上平城主を務めました。横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年6月、 北条方が守る忍城攻めでも奮戦しました。

加藤段蔵

加藤段蔵(かとうだんぞう)は、戦国時代の忍者。忍者としての技術に優れ、最初は上杉謙信の配下として仕えました。 このとき、謙信の命令で敵対している大名家からある名剣を奪ってくるように命じられました。すると段蔵は、 大名家の警戒の目を見事にかいくぐって名剣を奪い、さらには大名に仕えていた童女までを生け捕りにして謙信の前に献上したと されています。ところが逆に謙信から警戒され、暗殺を謀られることになりました。このため、謙信のもとから去って、 武田信玄の家臣となります。なお、この逸話は敵対する大名家ではなく、謙信の筆頭家老直江大和守から家宝の大薙刀を 奪い取るよう命じたともいう別のものもあります。信玄のもとでも忍者として優れた技術を見せましたが、その信玄からもやがて、 そのあまりに優れた忍者としての技術を警戒されることとなります。そして1569年、厠に入っていたところを信玄の命令 を受けた馬場信春によって暗殺されました。

高坂甚内

高坂甚内(こうさかじんない)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての忍者。 武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。武田家臣の高坂氏の出で、一説には高坂昌信の子とも孫とも言われます。 江戸の吉原を仕切った庄司甚内)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれました。 徳川幕府は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出しました。しかし関東には後北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、 治安を安定させるところまでは手が回りませんでした。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、 関東の治安回復の責任者に任命しました。 甚内は関東一円に散らばる盗賊を糾合し、幕府の治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、 追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18年に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされました。 その際、マラリアを煩っていたと言われ、死に際には「瘧(マラリア)さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は 我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したといわれています。浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として高坂甚内を 祀っています。

実在した忍者達

2011/04/10

服部保長

服部保長(はっとりやすなが)は、戦国時代の忍者および武将。いわゆる、初代服部半蔵。 伊賀の忍者には服部氏族の子孫である「千賀地」「百地」「藤林」の三家がありましたが狭い土地において生活が逼迫したため、 その中の一家である千賀地家の保長は旧姓である服部に戻して伊賀を出て室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となります。 ですが当時は室町幕府の衰退期であり、保長は見切りをつけて三河に赴き松平清康に仕える事となります。以上が通説です。 また、松平家も清康の代には大きく伸長しましたが「森山崩れ」を境に一気に衰退、その間の保長の動向も不明です。 徳川家康の代に松平家改め徳川家が大きく伸長した頃には既にその子服部正成の代になっており、正成も忍者としてではなく 槍の名手である武将として功を成しています。

服部正成

服部正成(はっとりまさなり/まさしげ)戦国時代から安土桃山時代の三河の武将。服部半蔵の名でよく知られています。 松平氏の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、伊賀甲賀衆を指揮していました。 天文11年、服部保長の四男として三河国に生まれ、生家の服部家は伊賀国の土豪で北部を領する千賀地服部氏の一門の長で あったが松平清康が三河国を平定し室町幕府の将軍に謁見するべく上洛した折、保長と面会して大いに気に入り、 その縁で松平氏に仕えることになったといいます。伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、 阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説があります。正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ徳川家康に仕えて 遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねました。

服部正重

服部正重(はっとりまさしげ)は、江戸時代の旗本。通称は半蔵。服部正成の次男。兄は服部正就。 弟は僧侶の正広。妻は大久保長安の長女。子は服部正吉ら。 1600年、関ヶ原の戦いで初陣。戦いの前日夜に徳川家康の陣で酒盛りしながら、父親の初陣話や活躍を聞きます。 翌日合戦の前に敵陣に一人で入り、寝込を襲い敵の侍大将の首を取り、家康に届けます。そこで、家康になぜ敵の首を取れたか 聞かれ正直に話したところ、家康の逆鱗に触れ、父親はそのような卑怯者では無かったと言われ、恩賞は無しにされたそうです。 1614年、大坂の役で行方不明となった兄・服部正就に代わり、服部家の家督と服部半蔵を襲名。 服部家は伊賀忍者の頭領として一般に知られますが、既に兄の服部正就の代において伊賀同心の支配の役目は解かれており、 正重は舅の大久保長安と共に佐渡金山などの政策を担当したそうです。 その後、越後国の3藩に家来として仕えますが、どの藩も藩取り潰しやお家断絶、家督争いにより再び浪人となり、 5年後、兄嫁の実家久松松平家の松平定綱に召し抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は 存続することとなります。1652年、73歳で没しました。

風魔小太郎

風魔小太郎(ふうまこたろう)は、後北条氏の忍者・風魔一党の頭領の代々の名前。 風魔一党は相模足柄郡に拠点を持つ忍者集団で、伊勢盛時の時代から諜報・後方攪乱などで活躍しました。 最も有名なのは北条氏政・氏直父子に仕えた五代目風魔小太郎であり、「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、 眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿だったという伝説も残っています。 特に1580年、武田勝頼との黄瀬川の戦いでは、闇夜に紛れた攪乱作戦で目覚しい戦果を挙げています。 北条家が滅亡すると、小太郎と風魔一党は江戸近辺を荒らし回る盗賊に成り下がり、1603年に盗賊・高坂甚内の密告により 徳川家に捕縛され処刑されたと言われています。『北条五代記』にしかその名前は見えないことが武江年表に記載されていて、 軍記の著者の創作の可能性もあるそうです。