
昭和37年、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見されました。これによると、伊賀国の服部氏族・
上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったそう。観阿弥は楠木正成の甥だったことになります。
根拠は特にありませんが、偽系図などと呼ばれています。観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していました。
伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を
形成していました。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、
その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させています(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、
信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けました(第二次天正伊賀の乱)。
百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われています。
伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるように
なりました。中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っています。
彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、
同心として江戸城下の治安の警護に当たりました。御庭番は忍者と同様に思われがちですが、誤りであり八代将軍・徳川吉宗が紀州から
連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、彼ら御庭番は忍者とはかかわりがありません。
徳川家光時、老中、側衆は、武断政策を強硬に進めました。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱・慶安の変といった大規模な
事件が発生します。 島原の乱・慶安の変の際に大目付として中根正盛が与力20余騎を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせました。
また、島原の乱の際には、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し兵糧が残り少ないことを確認したという記録が残っています。大目付として、老中・諸大名の監察を任とし、配下の隠密機関の元締めとして島原の乱・慶安の変 に関して崩壊・一掃させる勲功を賞され、
また、配下の廻国者で組織している隠密機関を幕閣という政府組織の一角に機関として組織化した事により、中根の公儀隠密元締説が
うまれたとうことです。
江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者でした。
そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われています。
その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、
普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられます。ですが、これらの説には決定的な根拠はなく、
現状では単なる想像の範疇を出ないということです。江戸時代の探検家・間宮林蔵は、幕府の隠密であり、
広義には彼も忍者だと言えます。少なくともシーボルト事件において高橋景保を売ったという彼の行動は儒教道徳的観点から非難され、
冷酷な忍者ならではの行動であると評されました。
その後明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、
忍者もその役目を終えることになりました。活躍できる場を失った彼らはその後、警察関係の職業など、新たな職に就きました。
明治末期~大正年間には立川文庫の作家たちによって、猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博しました。
映画のトリックで忍術が描かれ、また、戦後の1950年代後半より、小説や時代劇、劇画などに忍者が多く取り上げられるようになり、
忍者は再び日本人の間で広く認知されるようになりました。